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知覧へ行った話

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一体何の数??…   と思った方も大勢居られると思いますが

これは太平洋戦争の沖縄戦で陸軍の特攻機が出撃した数になります。

前書き

G7広島サミットが開催された5月20日。

各国の代表が平和記念公園で献花を供えたり、ゼレンスキー大統領が来日している様子がテレビ中継されていた頃。

 

友達の付き添いで、私は知覧にいました。

知覧は、鹿児島県南部の長閑な場所ですが、ここにあった知覧飛行場では、80年近く前に402機もの特攻機が出撃しました。

▶︎知覧の場所

戦後、特攻の悲惨さを後世へと伝えるために建てられた「知覧特攻平和会館」。今回、そこへ行ってきました。

特攻隊員の人生

特攻自体は、歴史の教科書で存在を知っていましたが、特攻に行くまでの流れを深くは知りませんでした。考えたこともなかったです。

なので今回そこに焦点を当てて、書いていきたいと思います。

 

●特攻隊員になるまでの流れ (あくまで一例)

戦中の学校制度は、今と異なり下図のようになっていました。

https://www.miyajima-soy.co.jp/backnumber/denjiro/denjiro071/denjiro071.htm

義務教育は尋常小学校のみ(卒業すると進学しない人も多かった)

進学する人は中学校(中・高に相当)へと行きます。

中・高を卒業すると、今は大学や専門学校へ進学するのが一般的だと思いますが、当時は戦争の時代だったので、軍隊に入るのが良いとされました。

陸軍士官学校は部隊を率いる将校を養成するための教育機関。

入試倍率はおよそ20倍でしたが、20歳そこそこで高等官になることができたため、とても人気だったよう。要はエリートですね。

 

また、貧しい家の子供が上級学校へ通うには、こうした道しかありませんでした。

(士官学校はお給料がもらえます)

 

●陸軍士官学校

厳しい競争をくぐり抜け、士官学校へ入校すると「予科」と呼ばれる”普通学”(国語、外国語、数学、物理など)を2年受けます。

それが終わると、士官候補生になれます。

 

●陸軍航空士官学校

航空士官(特攻隊)を目指すものは、そのまま航空士官学校へと入校。

航空兵科は専門技術の習得に時間を割くことを優先し、隊付勤務が省かれました。

→ 他兵科は予科卒業と本科入校するまでの半年間、隊付勤務を行う

航空士官学校の教育は大きく前期と後期に分けられます。

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前期・・・普通学(物理、数学、語学 etc...)

後期・・・飛行訓練、軍事学(戦術、航空工学、エンジン構造 etc...)

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通常12ヶ月ほどあった訓練期間ですが、戦況が悪くなると速成教育となり前期の普通学を大幅に削減し、6ヶ月ほどの訓練期間となりました。

 

●訓練内容

特攻の方法を示した教本が印象的でした。

高度1000mから突入態勢に入ると、ものの10秒ほどで敵艦に体当たりを敢行すると書いていました。

 

その間、どんなに鉄の雨を打たれようと、どんなに揚力が生じようとも、機体をコントロールしなければならないし、恐怖に勝ち続けないといけない。

それを20歳前後に若者が訓練するというのだから、本当に言葉を失います。

・急降下衝突             ・水平衝突

   

http://kakogawa-airfield.work/tokkou-hensei

 

●訓練を終えて、知覧基地へ移動

訓練を終えて任官されると、出撃のために知覧基地へ移動します。

 

知覧基地に移動して、数日待機すると特攻へ行きます。

特攻日は前日に言い渡されます。

(特攻部隊のうち、九州から出撃した部隊は”振武隊”と呼称される。)

多くの特攻隊員はここで遺書や遺品を残しています。

 

家族との別れを惜しむ手紙や軍上層部への不満を書いた遺書、全てを受け入れてさっぱりした気持ちでいる遺書など胸が詰まる内容が多くありました。

 

●特攻当日

別れの盃をしたのち、知覧基地を飛び立ちますが、沖縄までの距離650km。

時間にすると、わずか2時間30分ほどで沖縄上空までたどり着きます。

沖縄までの移動ルートは2種類あったそうです。

特攻機のコックピットは下のようになっていて、速度計と羅針盤だけを頼りに南方へ向かいました。(大半が圧力計)

https://bestcarweb.jp/feature/391275

本土の最後に見えるのが、開門岳。

ここまで来れれば、あとは同じ方角へ進むだけ。

最後にこんなに綺麗な景色を見なきゃいけないのはとても辛いと思う。

写真協力:公益社団法人 鹿児島県観光連盟

●まとめ

4月6日の第一次総攻撃から7月19日の第11次総攻撃までの、わずか3ヶ月で、知覧から402もの人が特攻しました。

 

練習機まで使って文字通り、総攻撃を繰り返しました。

大きな成果が挙げられなかった、、にも関わらずです。

恐ろしいですが、毎週毎週、湯水のように人の命を使っています。

 

特攻隊員の人生をなぞることで、特攻した人の気持ちを考えてみることができるのではないかと思いました。

もし自分も同じ境遇になったら?ということを、知覧ではずっと考えていましたが、特攻隊員の命を無駄にしてほしくないなと感じました。

美化してほしいという意味ではなく、糧に、教訓としてほしいという意味でです。

 

言語化が難しいのですが、身近な所でいうと人の考え方をもっと言い合えるような雰囲気作りが大事だと思っています。

当時だって、頭の賢い人はいっぱい居て、特攻に大きなメリットがないと思いつつも国としては最後まで道を誤りつづけてしまった。

特攻の失敗は、同調圧力や互いに考えを言い合える環境でなかったことに起因すると思います。問題は向き合った上で、より良くしていく姿勢が大事だと思います。